村上春樹「騎士団長殺し」読み終わり( ̄▽ ̄)ジョニーが来たなら伝えてよ、2カ月かかったと~。
ついに読了!
いや~長かった(^▽^;)
長すぎて序盤に人物が抱えた哀しみを持続させられたかどうかわからない
「読書とはなんだろう?」と考えさせられることがややあった。
なぜかというと村上春樹さんが電子書籍にやや慎重派だったのでそもそも
電子書籍版がまずないのだ。
そこからまず電子書籍を風呂で読むのにハマっていた僕は
分厚い二冊の本を買うことから始まった
後半でこんな表現がでる
優れた音楽を聴くには、それにふさわしい様式がある、と。
・・・・・
これはもちろん読書も同じと言えるだろう。
重たい本を鞄に入れて読み続ける習慣をつけることがどんな意味をもつのか
確かめてみたかった。
結局風呂に持ち込んで読んでしまうのだけれど(^▽^;)
すごく読みやすいんだけれど、ある意味難解ではないか。
そこからなにかを抽出するのが難しかったりする。
始めから読み終わった売ろうかな~と思っていたけれど、終盤に来て
いや、これを少しのお金のために売ったのだとしたら、それこそ紙媒体の書籍の意味を
理解していないことにならないか?
なんとなく物語のテーマにも通底するところもあり証拠のようなものとして蔵書してもいいのではないか?
という関係ない空中戦を繰り広げるところに、ある意味、紙媒体の意味を見つけた。
面倒なこと、もその様式なのだ。
ちなみにその音楽というのがブルーススプリングスティーンの「The river」でありそれをレコードの針を落として聴くのだという。
スマホでYouTubeで聴いてみた(;'∀')僕はその様式にそぐわないのだろうか、しかし、映像と共に訴える独特のものもある。
長編の読書とはその行為そのものがなにかリズムを刻んだり、意味のあるものでないと
振り返った時にどこを歩んでいたのか分からなくなる、そんな気がする。
感心したのが、絵は「描きかけで完成したもの」、となる場合が往々にある、という事実。
よく想像の余地とか言って、ごまかされる気がするけれど、
やっぱりそれは完成だったりする。
で、以下はネタバレもあります
結局、なんだったのかな~~~と考えると
騎士団長はいたんだよ、というのがひとつのメッセージではないか、と簡単に思いつく
つまり非現実的なイデアである存在が実際に目に見えて耳に聴こえ、それを信じること、
その「仮説」の大切さ。
ひとつはもちろん、物語としてのハッピーエンドとして捉えること。
やや強引なハッピーエンドの中にある矛盾を
「仮説を信じること」で受け入れるという術。
ものごとにはいくつかの側面があり、それを「切り出す術」(この場合はメタファーや絵の技術)、もしくは「媒介するもの」がある。
それは言葉、詩、だったり絵、だったりする。
そうものごとは「いくつかの側面」がありそれは「明るい部分も必ずある」のだ。
と思い返すと、そんなことが書いてあったな~と思う。
異世界に入ってから戻ってきた世界は、果たして前と同じ世界なのだろうか?
そんな空想、や仮説を
信じることで、世界は別の側面をみせる。
優しい騎士団長を信じる、ことはきっとした方が良いのだろう。
と、いうことでブックカバーを外した「騎士団長殺し」は蔵書に並ぶ。