ドラマ「デート」最終話の概念をいろいろ考えた。 #fujitv
前回の続き・・・
仕事中ずーっと恋の概念について考えた。
前回の話は簡潔に説明できる。
相手を思うこと、と、相手の欠点が気になりすぎること、
それは端的に相手を自分と同じに見ている
「自己同一化」
で説明がつく。
だから相手の幸せを自分の幸せのように思えるのであり、
自分だから気になるところが許せないのである。
自己同一化は愛のひとつの形なのだけれど、
実はこれ、まだ未熟なものなのだ。
世間では一見、愛のように呼ばれているものはまだ未熟である場合が多いらしく、
その先にあるもの、
は一部の「愛するということ」という本などに書かれている。
と僕は思っている。
ラストシーンの手を握って時間を無駄にする、という行為は
その先にある寛容と受容なのだろうか。
とにかく最終話に突如出てきたオバハンの言っていることは
ひとつの形でしかない。
ものごとをありのままに見ることは受け入れることであり、
神性を持つものである。(楽しみを持って受け入れるという意味において神性であるbyマズロー至高経験の神性について)
あの話を続かせるならば、そこを突いてくる人物が必要だ。
しかし、神性をもってすべてを受け入れたところで人は神にはなれずに日々食べて、
動植物を殺さなくてはいけない。
それを獲っていくには
やはり互いは効率よく獲物をとれるものではなくては生きていけない。
少なからず余裕がなくては受け入れることも赦すことも難しい。
禁断のリンゴは
二人にとって覚悟であり、婚姻届を契約書の手続きとしか思っていない人間には
よっぽど意味のあるものなのだろう。
よって
恋と本当の恋、の違いは、覚悟、なのではないだろうか。
と、また平板な言葉に閉じ込められてしまう。
最近どうも思うに、真実に近い概念は専門書のようなものをやや丁寧に読んだ時に
浮かび上がる気がする。
ドラマ「デート」のラストシーンではそれが描かれていたような、いないような、
とにかく面白いドラマでした。