ポケットの中の闘争
恐らく何万回か、こういうものを書こうと思い、
まあ、いいや、と思っていること。
もしも、ここで死んでしまったも、なにか残るものがあっていたい。
それが人というもの。
自分の家を建てること、それが人生の目的である、という論がありますが、
(この場合の家は人により違う)
すごーく簡潔に序文のようなものを書いてみます
僕が「世界を変えたい」というのはもちろんいきなり紛争や貧困をなくせる魔法があるなんて思っていない。
もしも変えられるものがあるとしたらささやかながら心の中の大切ななにか、だろう。
そうなってくるとだいたい思想か哲学あたりになるだろう、ことは容易に想像がつく。
問題は、それが難解であること。
どー考えたって思想も哲学も難解だ。
ヒントになるのが宮本武蔵の五輪書であり、彼は簡潔に仏教用語を使わずにそれを残した。
あれはよーするに「奥義なんてものはなく、よくよく工夫あるべし」
「ものごとをよく見切り、すべてを己の師として研鑽すべし」ということで水であり、空であり、
万物の本質からすればなにも動ずることはないし、常に動き続けるものである、ことを言い当てている。
それをもっと現代的に誰にでもわかるようなものがあれば、きっと新・五輪書ができるんだと思う。
僕はそんな
「心の平和のカラシニコフ」
のようなものができないか、と常に考えている。
カラシニコフとは有名過ぎる自動小銃の名前でAK47カラシニコフ、扱い方があまりに簡単で分解でき丈夫で安価なことから世界中の紛争に使われ少年兵を無数に生み出した悪魔とも呼ばれる銃、ですが、
そんな悪魔ではなく、子供にも理解でき、簡単で楽しく、実践的に平和に役立つ、思想哲学がありはしないか、と思うのです。
それは端的に言えば「人にやさしく」なのだろう。
だとしたら、もう歌にも、あるじゃあないか、ということになるけど(^▽^;)
ただ歌を歌として認識している限りそれは限界がある。
そうなると歌は歌ではなく実践だ、ということになる。
そうなるとやはり「実践哲学」「実存哲学」あたりが濃厚になる。
ワンピース大好き―って言ってるのはいいけど、ホーディ・ジョーンズの本当の正体を考えてみる。
夢を追うことに意味を考えてみる。
ガンダム好きだけどバナージの言う「それでも!」を言い続けろ、ということの意味を実践できるか。
というリアルアニメ的な意味になってくる。
僕、実は著書「たかがアキバ されど秋葉原」に一つだけ絶対に書いておきたいことがあって、それが「リアルアニメ」という勝手な造語だったのですが、
アニメの希望をリアルに生きる、という意味で書いてみました。
アニメという、ともすればもっとも理想の絵空事のようなものとリアルを結びつける飛躍が欲しかったんだと思います。
こんな風に身近なアニメでさえも考え方ではなんかすんごいことのように思うこともできる。
(そんな思想哲学だってきっと無数にあり、僕なんかはなんでもないのだけれど)
だからポケットの中の闘争なのだと思います。
少年の心のポケットの中にしか残らなかったけれどそれは確かにそこにあり、誰も知らない闘い。
そして、一個人の闘いというものはそういうものであり、すべては等しい、のだということ。
等しいも何もその比較基準ということすら存在しないもの。
しかし結局「ポケットの中のジレンマ」、に続くことになる。