ニーチェに凄く共感するところと感心するところと、しないところ
従順な人間、
というのは教義を信じて歩むものである
日本人はよくこれにあたる、
それにより意味のない道徳や、常識にふりまわされるのではないか。
それが人をポジティブにするものであれば良いが、そうでない場合が無数にあるから、こういう
ニーチェの怒りのような話になる
仏教などのように結局、まるっと世界は丸いんだから
相対的に良いも悪いも対立もない、
というも理ではあるけれど
力への意志をもって進歩を試みないと、超人への意志を試みないといけない、
というのもすごくわかる
超人、というのはすごく飛躍しているので
僕はガンダム的にニュータイプっていう語感が好きだけれど(;'∀')
ユダヤ人がどうのこうのという語り口に対してはすごく抵抗がある
だってユダヤ人にも良い人もいれば悪い人もいるのは当たり前すぎる話だし、
歴史を語るうえでその括りが必要だというのなら、そんな歴史は間違っていると思う
歴史自体が間違いではないはずなので、語り口、の問題ではないか。
この語り口だから切り拓ける土壌もある、と考えるとまた
間違いなんてない、ともいえる、がニーチェのいうように
進歩があるのならば、さらなる語り口を持たねばならない
ルサンチマンを飼い馴らすなら、自分自身が化物にならないように気をつけなくてはいけない。
これは抽象的なようで現実的であり、まさに現代社会の人間が機械を取り込み
(戦争の道具もふくめ)化物にならんとしているのをみれば見ての通りではないか。
ということで最近、哲学書にすごく興味を惹かれている興奮をお伝えいたしました(^▽^;)それだけ。